小子部(ちいさこべ)塚
天武天皇の勝利に貢献した人物、小子部連鉏鉤(ちいさこべむらじさびち)。
『名古屋の伝説』で知り、訪ねました。
『愛知県史』『名古屋史』によると、出典は『日本書記』(延宝7年版)。
自死の理由は”志に違えた”等の考察も載っています。
『尾張名陽圖會』
「名古屋山 東出口古戦場」に記載。敵方を悼んだ「大友塚(おおともづか)」は、今の橦木町あたりにあったそう。
浄土宗 持名山 高岳院(こうがくいん)
小子部(ちいさこべ)塚があったあたりとして訪ねました。
駅名「高岳」の由来。清須越の寺社。
『東寺町の成立と変遷 - 名古屋市蓬左文庫』
浄土宗鎮西派 京都知恩院末。
『尾張名陽圖會』
「持名山 高岳院 菩提寺」として大きく載っています。
「三社之家」「鎮守熊野」の字あり。
「星野氏京都三十三間堂をつとめ」は、京都三十三間堂の通し矢で天下一となった、尾張藩士の星野勘左衛門。
墓は後述の仙千代と共に、平和公園にあるそう。
『清須越』より
1601年、甲府に教安寺として創建。
1608年清州城外に移転、徳川義直の兄・仙千代の菩提寺として改号。
1611年、清州越しで現在地に移る。
総門は清州城の黒門を移築、国宝指定されたが第二次戦争で焼失。
現在の山門は、戦後に建中寺から譲り受けた。仙千代の墓は平和公園にある。浄土宗。
『清須越』より:住職から伺ったお話
「慶長16年(1611)慶長遷府の時、現在の地に移転しました。
仙千代墓所と共に本堂、総門(清須白の黒門で旧国宝)などを移転しました。
昭和20年3月の空襲で建物は全て焼失しましたが、庫裏の内仏としてあった阿弥陀如来立像は鋳鉄製でしたので焼失は免れ、真っ黒になってしまいましたが、こちらを本尊として、今はお祀りしております。
昭和51年に庫裏を再建しました。」