攝取山(せっしゅざん) 遍照院(へんじょういん)
門前の西側に、穏やかなおもざしの阿弥陀如来像と地蔵が立ち並んでいます。
『尾張名陽圖會』
地蔵堂や秋葉家もあり、大きく描かれています。
『清須越寺社マップ』
高岳院の東隣に大きく載っています。青い線は河。
浄土宗 喜秀山 貞祖院(ていそいん)
門前に「當山林泉 烏池古跡」の石碑と案内板があります。
本堂は江戸期、烏が池は近年に復興されたそう。清須越の寺社。
『尾張名陽圖會』
貞祖院ほか庚申堂と烏の清水も描かれています。
「庚申堂~弘法大師の正作なり」の弘法大師は、宝亀五年(774)讃岐国の屏風ガ浦(香川県善通寺市)生まれ。
「烏の清水」のくだりには「水色黒く~」とあります。
※門前の石柱「烏」はウ冠でない
「烏」の字源は「鳥」から線を一本、抜いたもの。
「鳥」の部首はウ冠でない。
石柱の「鳥」は「烏」の強調かな?
案内板
養念寺は富永山と号し、真宗。寺記に慶長2年(1597)の創建という。
当寺の庭園の池は、泥土の色黒く、したがって水色も黒く見えたので、烏池の名が出たといわれる。
江戸末期には文人墨客の遊ぶもの多く、『尾張名所図会』にも記され、当時支柱の名園と知られていた。
戦災により損傷したが、昭和56年秋、改修されもとの姿に戻った。
『清須越』
慶長12年(1607)徳川家康の四男・松平忠吉の位牌所として、清州に玄白寺として創建。
慶長15年(1610)改号。1611年、清州越しで現在地に移る。
天明5年(1785)の大火で寺は焼け、後に仮本堂、庫裡等を再建。
明治5年(1872)建中寺から尾張五代藩主・五郎太の御霊屋本殿を譲り受け、須弥壇等と共に入母屋妻入り本堂(旧市指定文化財)に移す。
庫裡は昭和34年(1959)伊勢湾台風で被害を受けるが面影を残す。
本堂は建中寺と東照宮の御霊屋と共に、名古屋における江戸期の霊廟建築として貴重な遺構。
本堂の折上格天井は、120枡のうち15枡に葵巴紋が張られている。
境内の庚申堂は幕末の建立。
かつてあった薬師堂に祀られていた木造薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像も合祀されている。
本堂南側の烏ヶ池は養念寺の烏ヶ池と水脈が繋がる「烏の清水」(烏川の水源の一つ)は近年に復興された。本堂西側には茶室、境内には二連の水琴窟がある。
五郎太の御霊屋
天明の大火でも焼け残り、二代・尾張三友の正室・千代姫の御霊屋として模様替えされた。
尾張徳川家の直系は五郎太で絶えている。