文化のみち散歩「大光寺」



 

日蓮宗 妙瑞山 大光寺(だいこうじ)

清州越の寺社。
2021年から工事、閉門されているため、門前を見学。

門前の道、南(左側)へ下がっているのがわかりますか?
『清須越マップ』を見ると、河があったことがわかります。
敷地も広かったようです。😃


門前の左の案内「井上士朗宅跡」
「尾張名古屋は士朗(城)でもつ」とまでいわれた俳人井上士朗は、守山に生まれ、医者の伯父の跡を継ぎ産科医となった。
俳諧を暁台に学び、暮雨巷の筆頭となった。
師の没後暁門の大部分を傘下に収め、新しく枇杷園を結成した。
士朗の旧宅はこの大光寺に隣接してあった。

宅跡は各マップになく、ピンときにくい‥。
「尾張名古屋~」の由来は、名古屋博物館「俳諧資料コレクション 芭蕉と蕪村」によると、士朗にあてた与謝蕪村の絵入り書状。

『清須越』より一部
もとは本妙寺と号し上野国(群馬県)名和郷に在り。
天文年中、武田の遺臣、甲州武士十八家の創建で宝聚院日傳上人の開山。
慶長年中日應の代、上杉家の抑えである同国厩橋(前橋市。城主は平岩親吉)に移り、大光寺と号す。
のち平岩親吉の国替の度に檀方の十八家も大光寺も甲府・清須と移転をくりかえし、慶長15年(1610)安国院日輝の代に名古屋城築城時今の地に落ち着いた。
明治4年名古屋藩庁の布告で、小学校に充当。大正2年本堂を再建。
昭和20年の大空襲で本堂・経蔵・山門・表門等悉く焼失。
昭和26年、墓地を平和公園へ移した。
昭和40年にインドのパゴダ風の本堂を再建。
本尊は戦時中に岐阜へ避難し、過去帳も江戸時代初期から現存。

日蓮宗 身延山久遠寺末。