文化のみち散歩「御釜師 加藤家宅跡」「鋳物師頭水野太郎左衛門宅跡」



御釜師 加藤家宅跡

清須越の歴史ある家。今は「ギャラリー花藤」として知られています。
善光寺道 道標の東側「いもじ業 加藤~」と思われます。

案内板
永禄の頃より守山村に住し、慶長6年 藩主に召され清須に移る
更に同16年には名古屋城築城がなり御城本丸より約1軒ほど隔てた当地に尾張藩鋳物師棟梁、水野太郎左衛門一家と共に藩許の鋳物師として藩の御用を努め、五代目のおり御釜師として、苗字、帯刀、上下着用も賜り、御城に大事の時は本丸に参じる事の御下命を受ける。
それより代々当地にて茶乃湯釜等を製作し現在に至る。


鋳物師頭(いもじがしら) 水野太郎左衛門宅跡

桶狭間戦に従軍し、織田信長、清須越、尾張藩と歴史ある家
今は「鍋屋」として親しまれています。😊

案内「尾張藩鋳物師頭 水野太郎左衛門宅跡」
初め上野村(現市内北東部)の鋳物師であった水野家は、永禄5年(1562)初代太郎左衛門のとき織田信長により尾張国中の鐘、鰐口(わにぐち)等を鋳造する特権を与えられた。
文禄2年(1593)二代のとき清須へ、慶長16年(1611)三代のときこの地へ移り住んだ。
江戸時代、尾張藩の鋳物師頭を代々務め、国内の鋳物の製造・販売はすべてこの家を経た。
市指定文化財の性高院(千種区)や東別院(中区)の梵鐘(ぼんしょう)は同家の作品である。

同家の名は、錦の桜天神社(さくらてんじんじゃ)でも見られます。
かつて時分鐘があったそう。

武家屋敷町から、名古屋の起業家達の屋敷町になった背景を辿ります。😊