東区まちそだての会の資料に、折冊子『文化のみちストーリー 明治~大正立志編』があります。発行は2002年11月3日、今から20余年前になります。
後年の『文化のみちイラストマップ』との相違が興味深く、今は手に入らない資料ですので、ここに紹介します。
筆者は西尾典祐先生。「文化のみち」界隈で知られている文筆家です。
⇒ 橦木館が自由空間だった頃の西尾典佑先生(橦木館のお庭番)
「文化のみち」のいわれをぜひご一読ください😊
音楽会、自動車、玄学校、
ダンスホール、映画、市電、
百貨店、カフェ、博覧会、動物園…
二十世紀初頭、明治の末から大正、
昭和の始めにかけては
様々なものが次々と生まれ
不思議なエネルギーが
巻き起こっていた時代です。
この地でも、新しい産業を生み出した人たち
新しい考え方や宗教をもたらした人たちなど
様々な分野のパイオニアたちが去来し、文流し、
いろんな物語が生まれました。
そうした人たちの持っていた
明治の開明の精神と、大正の自由の心に
思いをはせながら歩いてみると
また違ったまちが
見えてくるかもしれません。
文化のみちストーリー
1985年、名古屋市は東区白壁・主税・植木町を「歷史的町並保存地区」に指定しました。現在、この一帯は「文化のみち」と呼ばれていますが、そのいわれを簡単に説明してみましょう。
中級武士の屋敷町
まず、江戸時代は名古屋城から遠からず近からずの範囲で、中級武士(300石程度)の住む屋敷町でした。
そのため区割りは600~700坪と開く、長い塀が続く、騒然とした町並みになりました。
そして、明治維新が起こり武家社会は崩壊します。当然、武家屋敷もそれとともに消滅するのが各城下町の定めでした。ところが、この地区に限っては、新興勢力によって町の枠組みは崩れることなく、そのまま受け継がれたのです。
広い屋敷は、新たに起こされた企業の敷地や経営者の自宅、新宗教であるキリスト教の施設や学校として生まれ変わったのです。
近代産業の町へ~明治半ばから大正期~
実業家の代表格としては豊田佐吉とその一族がいました。
明治三十年代、東区武平町杉の町の工場で国産初の自動織機を発明した豊田佐吉❶は、長塀町に自宅をかまえ、トヨタ自動車初代社長となる利三郎❷は白壁町に、長男・喜一郎❸はその東側に、弟・佐助❹は通り一本南の主税町に、その東側に佐吉の右腕の西川秋次(現西秋奨学会)が屋敷を作りました。
利三郎邸の南向かいには、代々醸造業を営む盛田家があり、盛田昭夫❺(ソニー創業)はここで生まれ育ちました。
また、陶磁器の世界的ブランド「ノリタケ」を創設した森村市左衛門❻もこの地区に住み、橦木町に全国の絵付け師を集め、一大工場❼を作りました。それもあって陶磁器関係者も多く住み、特徴ある建造物としては、春田邸❽・井元邸❾(橦木館)や陶磁器会館などがあります。
他にも、豊田家と縁が深い三井の関係者も済、その一人に矢田績➓(元三井銀行支店長)がいました。矢田の自宅は橦木町にあり、洋室を「橦木町倶楽部」として誰でもが出入りできる空間として開放していました。
さらに矢田は、大学の後輩・福沢桃介(福沢諭吉の養子)を名古屋に招き、名古屋電灯(現・中部電力)の経営改革を依頼、これを機に桃介は「電力王」と称されるようになります。私 生活でも桃介は女優・川上貞奴と東二葉町に住み、一階の大広間は中京財界のサロンと化していました。⓫
近年この建物を名古屋市は入手、橦木町三丁目に移築し、2005年早春には複合的な文化施設として蘇る予定です。特に二階部分は、作家・城山三郎氏の好意によって、同氏の蔵書数千冊の寄付を受け、それを中心として「郷土ゆかりの文学資料室」(仮称)とする方向で進められています。
新しい思想、宗教を広めた人たち
こうして多くの富豪が住んだことにより、新しい宗教や思想を受け入れやすい雰囲気が生じました。横浜や神戸のように外国人居留地のない名古屋で最初に欧米人が移住したのもこの地区です。
長久寺町の中京教会⓬は明治半ばから活動を始め、近年、100周年を祝いました。「廃娼の父」とたたえられるC・モルフィの拠点がここでした。主税町カトリック教会⓭も明治後期の建造物で、正面ボーチが三連アーチになっているのが特徴的です。他にも聖マルコ教会やカノッサ修道女会があります。
また以前は主税町に愛知教会⓮があり、後に日本婦人有権者同盟会長となる市川房枝が通っていました。
白壁町の金城学院もその関連ですが、同校内には栄光館⓯という講堂が建っています。この建設費の半分はアメリカの女性たちの寄付金でまかなわれました。
時代も大正半ばになると企関業も製造業ばかりではなく、情報産業なども発達してきます。名古屋新聞(後に新愛知と合併して中日新聞に)の初代社長・小山松寿⓰と二代目社長・與良松三郎⓱もこの地区の住人でした。
この與良がスポンサー役になり、長野浪山という牧師が実行役となって貧民救済のための「簡易食堂」が盛り場に作られました。「簡易食堂」とは資本は寄付、労働はボランティアに頼り、ほぼ原価で食事を提供するものです。やがて、この食堂の余ったスペースに人々が集うようになり、その部分だけが独立して「番茶の家」が生まれました。「番茶の家」とは番茶を飲む程度のお金があれば利用できるという意味です。昭和初期のことで、貧しい芸術家や知識人が文化的交流をなす場となりました。
1996年から2002年にかけて井元邸が「橦木館」の名称で一般に内部を公開し、各種の文化的な催しを行っていたのは、この「番茶の家」の再開の意図からです。現在は閉鎖中ですが、演劇祭・文化の日など特別な日は公開しています。
交流の中から文化が生まれる
こうして見てきますと、武家町だった当地区は、まず近代産業が起き、そして新しい宗教・思想を受け入れ、その上で人々の交流が行われるという流れを持っています。
これはすなわち、我が国が封建社会から近代国家に向かって歩んだ「みち」です。
また別の観点から見ますと、前述した「橦木町倶楽部」の主宰者・矢田績は私財を投げ出し、図書館(名古屋公衆)を作りました。この図書館の常連が城山三郎氏でした。このことに影響を受けた同倶楽部のメンバー・岡本桜(東邦ガス社長)が会社として寄付したのが、東山植物園です。
人と人が交わり、なにかが生まれる。それが包括的な意味で「文化」ではないでしょうか。この二つで、つまり「文化のみち」なのです。
文中の❶~⓱は、折冊子の内面によります。今の「文化のみち橦木館」「文化のみち二葉館」ができる前。
20世紀を先駆けた人たち
ここにあげた地図は、大正11年(1925)の住宅地図を基に作成しました。綺羅星のように、産業界、宗教思想界の第一人者たちが居住していたのがわかります。
『文化のみちストーリー 明治~大正立志編』続きは『「文化のみち」20世紀を先駆けた人たち』をご覧ください😊