「文化のみち」20世紀を先駆けた人たち



東区まちそだての会が、2002年に発行した折冊子『文化のみちストーリー 明治~大正立志編』の続き。

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輝く二葉御殿

福沢桃介(1868-1938) 川上貞奴(1871-1946)

木曽川に日本初の水力発電ダムを建設した福沢桃介は、「東京は縁故で、大阪は口で、名古屋だけは努力して金確けする土地」と、早くから名古屋に注目していました。

裸一貫から事業をおこした豊田佐吉を尊敬し、川上貞奴と共に暮らす屋敷を東二番町に建てたのも、佐吉がこの近くに住んでいたためだったといいます。

約2000坪の敷地に立つ和洋折衷式の建物は、当時の住宅専門会社『あめりか屋』の設計施工で、大正9年頃完成。『二葉御殿』と呼ばれていました。

玉砂利の道を入っていくと、車寄せの前がロータリー。松の木などが植えられ、芝生の庭にはしだれ桜やもみの木、電気仕掛けの噴水やサーチライトまであったと、当時の記録にはあります。

ソファーが円形に張り出した大広間では、ステンドグラスが柔らかい光を投げかけていました。

日本の女優第1号として名をはせた貞奴。桃介の接待のためしばしば催されたという園遊会の折など、まわり階段から下りてくる彼女がどんなに美しく輝いていたか、想像するだけで楽しくなります。

コラム 文化のみち界隈

知多半島で製粉業を営んでいた盛田善平は、ドイツ人俘虜として東区古出来町の収容所にいたハインリッヒ・フロインドリーブを初代技師長として迎え入れ、大正8年(1919)敷島製パン株式会社を創立しました。

その後広小路通りを皮切りに次々と直売店を開店。日本にはあまりなかったフォードのトラックを輸送車として導入したり、木下サーカスから象を借りて練り歩くなど、ユニークな宣伝方法でみるみる事業を拡大させていったのです。
川上貞奴も楽しんだと言われている、撞球。大正期には庶民の間にまで広まっていました。

日米友好の象徵 栄光館

明治22年(1889)、アメリカ人、アニー・ランドルフの奔走で金城学院(註)は設立され、生徒たちは外国人宣教師を通じて厳格高潔なピューリタンの気概をたたきこまれました。

士族の子女が多く学んだこの学院からは、後に海外伝道の道を歩む西森磐児(いは)、英文タイピストとして時代の先端にたって活躍した龍崎たま、日本画家となった田中八重などが巣立ってゆきます。

設立当時わずか3名だった生徒数は、昭和8年には800名を越えます。それにともない新校舎が建設されますが、定員1200人の講堂では全員が経って、すし詰め状態で礼拝をしていました。

この様子がアメリカの雑誌に掲載されると、米国長老教会婦人部が中心となって募金活動が行われ、集められた金額は総工費のおよそ半分、11935ドル(訳146000円)にも達しました。

昭和11年12月、新講堂『栄光館』落成。1382席、屋上には天体観測室、この時代にスチーム暖房まで完備されているという立派なものでした。

日本がまさに対立関係になっていくこの時期に、アメリカの女性たちが日本の少女のために寄付金を集めていた。この事実をいつまでも忘れないでいたいと思います。

(註)設立当時の名称は「女子専門冀望館」、栄光館建設当時は「私立金城女学校」であった

20世紀を先駆けた人たち

ここにあげた地図は、大正11年(1925)の住宅地図を基に作成しました。綺羅星のように、産業界、宗教思想界の第一人者たちが居住していたのがわかります。

市川房枝(1893-1981) 小林橘川(1883-1961)

聖書を学ぶ少人数の集まりから始まった愛知教会に金子白夢が牧師として着任したのは、明治45年のことでした。

「都市は一大芸術作品である。従ってそこには調和の美が表現されていなければならない」と雑誌『都市創作』に書いた白夢は牧師でありながら哲学者で、彼がいる愛知教会は文化人の集まる場になっていました。

当時、市立第二高等小学校の教師をしていた市川房枝も、その一人です。金子牧師によって洗礼を受けた彼女は、体をこわして職を失い、教会での縁をたよりに『名古屋新聞』主筆の小林橘川を訪ね、初の女性記者として働きはじめます。

房枝の仕事ぶりはまわりも目を見張るほどのものでしたが、「デモクラシーの風に触れるには東京に行くしかない」と、翌大正7年8月に上京。以後、平塚らいてう等と『新婦人協会』を設立するなど、婦人解放運動の道をひた走ることになります。

一方橘川は、戦後市政に転向し、名古屋市長を三期つとめますが、選挙の際には必ず応援演説をする房枝の姿がありました。橘川への感謝の気持ち、そして愛知教会で過ごした日々が、遠い記憶として彼女の中に残っていたにちがいありません。

明治の薬剤師

寺島みつ(1888-1930)

大正初期から昭和初期にかけてすばらしい発展をとげたという鍋屋町商店街。

今では往時のにぎわいこそありませんが、砂糖卸商、菓子舗など、数件の店が変わらぬ商いを続けています。

その中でひときわ目を引くのが『てらしま薬局』。

大正の初めに建てられたどっしりとした店構えで、昔の薬の看板や、写真、薬剤師免許などが店内を飾ります。

セピア色の写真の中の袴姿の女性、寺島みつは、父佐七の跡を継ぎ第66号の薬剤師の資格を獲得。明治37年、彼女がまだ十代の秋のことでした(註)。

女性が働くこと自体珍しかった時代の彼女の決意、意気込みを考えると、私たちまで励まされるような気がします。昭和5年、わずか42歳で生涯を終えたのは残念なことですが、夫から息子へ、そして現在は曾孫に当たる五代目寺島健二が「まちの薬局」の看板を守り、彼女の心意気を今に伝えています。

(註)明治22年(1889)薬品営業竝薬品取扱規制」が公布され、薬剤師の名称と職能が規定された。

コラム 文化のみち界隈

手打ちうどん・そばの店、川井屋本店の創業は大正10年。同じ飯田町内で場所は少し変わりましたが、今も家族総出で昔ながらの味を守っています。



ここまで『文化のみちストーリー 明治~大正立志編』をご覧いただきありがとうございました。

”人と人が交わり、なにかが生まれる”「文化のみち」
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