文化のみち散歩 南寺町(2)



 文化のみち散歩は『文化のみちイラストマップ』を中心に月1回、有志で行っている歴史散歩です。2023年2月は、イラストマップから南西「南寺町(みなみてらまち)」を歩きました。

南寺町は、徳川家康公の命により清須から移った「清須越し(きよすごし)」の寺領地。名古屋城の南にあたるため「南寺町」と呼ばれました。

名古屋城の東には、同じいきさつで「東寺町(ひがしてらまち)」があり「文化のみち」の南に位置します。今回は1月に歩いた大須(おおす)に続いて、東別院(ひがしべついん)を散歩しました。

散歩コース

東別院駅改札4番出口⇒下茶屋公園⇒東本願寺別院-古渡城址(ふるわたりじょうあと)⇒芝居濫觴(らんしょう)跡(橘座跡)⇒崇覚寺(そうかくじ)⇒栄国寺(えいこくじ)-切支丹塚(きりしたんづか)⇒長栄寺(ちょうえいじ)⇒梅香院(ばいこういん)‥大須商店街で昼食、散歩‥大須観音 宝生院⇒からくり人形上演「宗春浪漫」

歩き方の参考は「中区:史跡散策路」の「別院コース」。全長2.4kmの半分くらいを歩き、コースにない名所も見て楽しみました。

下茶屋公園(しもちゃやこうえん)

東別院駅4番出口から歩き3分、160m位で東側の入り口。

駅から地上に出て目の前、交差点を渡って右へ。メ~テレ(名古屋テレビ放送)の北側に、公園の入り口。入ると穏やかな庭園風景が広がります。十三重塔、雪見灯ろう、池、築山(つきやま)、つくばい、芝生。

山あじさいなど花の案内が多々あり、四季折々に楽しめます。この日は椿の花、クロガネモチらしい赤い落実を楽しみました。

案内板より
この公園は、旧東本願寺別院・新御殿の後庭があったところです。
真宗大谷派名古屋別院(東別院)所蔵の平面図には「新御殿御庭」という別記があり、天保のころ落成の建築群に伴って作庭されたものと考えられます。
この庭の平面形が下茶屋公園によく残されており、江戸時代後期の庭園として貴重なものといえます。
また、東別院周辺一帯は、古渡城跡地でもあり、尾張名所図会(幕末)の「東本願寺 掛所」によれば、「古渡古城天守臺址」という記入があります。-名古屋市

公園の西側から出て左手に、東本願寺別院の東門が見えます。

東本願寺別院(ひがしほんがんじべついん)

「お東(ひがし)さん」と親しまれ、毎月8日・18日・28日の朝市はたいそうにぎわいます。この日はメ~テレ開局60周年のイベントがあり、準備でにぎわっていました。本堂はかつて高さ36メートルあったそう。広大な敷地にそびえたつ本堂、想像すると圧巻!

本堂では法話の最中。法話といえば、落語の原型。落語の高座(こうざ)は、僧侶が一段高いところに座っていたことに由来します。(詳しくは『林家木久扇のみんなが元気になる学校寄席入門』をご覧ください。”落語の祖ともいわれる安楽庵策伝の肖像”も載っています)

古渡城址(ふるわたりじょうあと)

この日は北側で紅白の梅花が咲き、よい香りに満ちてました。お城といえば、石垣の上にそびえたつ姿を想像しますが、古渡城は平地の造り。築いた織田信秀公の菩提寺・亀岳林 万松寺(ばんしょうじ)は、1月の散歩でいまの所在地を訪ねましたので、なじみがあります。

案内板より
天文11年(1542)頃、信長の父織田信秀は、経済的基盤となる熱田を掌握し、東方の今川方に備えるため、このあたりに築城した。城は、東西140メートル、南北100メートルの平城で、周囲に二重の堀が巡らされていたといわれる。天文17年、信秀は末森城(千種区)に移り、この城は廃城となった。-名古屋市教育委員会

大きな山門をくぐって右、西から北に向かいます。

ホームページ⇒ お東ネット 東別院

北へ歩く中、道沿いに立つ案内板が目に入ります。

芝居濫觴(らんしょう)跡(橘座跡)
寛文(かんぶん)5年(1665)9月からこのあたりが町家になり、春秋2回芝居興行が許された。享保(きょうほ)16年(1731)七代藩主宗春の代になって、彼の積極策により反映の一途をたどり、東西の名優が競って来演し、絢爛たる芸苑の花を咲かせたが、元文(げんぶん)4年(1739)宗春の失脚で中断した。
文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)期(1804~30)に再び活気を取りもどし、以後幕末の一時期を除き明治まで続いた。-名古屋市教育委員会

当時の活気を想像しながら、北へ歩いてまもなく。寺号標(じごうひょう)上の小鳥像が目に入ります。止まったような姿が可愛らしい。

崇覚寺(そうがくじ)

寺号標(じごうひょう)の向こうに、形のよい花樹。趣のある山門。小路が西門に続き、中には歴史を感じる手水舎、やさしい風情の築山。案内板の絵(尾張名所図会)も情感豊かで和みます。

ホームページ⇒ 名古屋市 認定地域建造物資産 崇覚寺(そうがくじ)

案内板より
崇覚寺は、東別院建立にともない、正徳3年(1713)に東別院に隣接する現在の場所に移転しました。南側には橘町の芝居地がありました。尾張藩2代藩主徳川光友によって芝居興行が許可され、7代藩主宗春の時代に大変繁盛し、多くの人でにぎわいました。
<尾張名所図会>江戸時代末期から明治初期にかけて刊行された地誌。尾張藩の名勝、史跡、神社仏閣などを絵と平易な文章で説明している。-名古屋市

さらに北へ向かってまもなく、小さな信号を渡って左手すぐ。趣のある寺号標(じごうひょう)と山門、その上にポップな額。明るい印象のお寺さんが見えます。


栄国寺(えいこくじ)

案内板より
清涼寺と号し、浄土宗西山派。この辺りは、もと千本松原といわれた刑場で、漢文4年(1664)隠れ切支丹宗徒200余名が処刑されたところである。
その翌年、尾張二代藩主光友(みつとも)は、刑場を他の地に移し、その跡に菩提を弔うため清涼庵を建立、後に栄国寺と改められた。
本尊の阿弥陀如来坐像は、県指定文化財で名古屋三大仏の一つ、刺繍涅槃図(ししゅうねはんず)は市指定文化財である。境内に切支丹遺跡博物館等がある。-名古屋市教育委員会

歴史的遺産物がたくさん。大切にされている様子がうかがえます。あまり知られてない「本堂の鬼瓦」も必見。削り取られた下、葵の紋様に細かく刃傷があり、当時を偲べます。

案内板より
今から225年前に創建された本堂のむね瓦です。
紋章の刃のあとは江戸幕府から明治維新にかけて、寺の焼討を恐れて葵の紋様を創り、徳川氏の関係の寺ではないようにしたのです。-平成8年 佛日 記

切支丹塚(きりしたんづか)は、大樹に囲まれた穏やかな立地にあります。

顕彰碑より
尾張藩の初代藩主義直公ならびに二代藩主光友公は、政道の基本を人間を生かす温厚誠実の精神においていたので、万物の創造新を最高の主君と崇めつつ、同様の精神で忠実に働いていたキリシタンたちには寛大であろうとしていた。しかし、キリシタン宗門禁制を強調する江戸幕府からの圧力のため、寛永8年(1631)以来キリシタン伝道に努めた者たちを検挙し、処刑し始めた。官営21年から正保2年にかけて(1644と45)は名古屋城中からもキリシタンが検挙されたが、此の地で処刑された彼らキリシタンの霊を弔うためか、町岡新兵衛は慶安2年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。
寛文元年(1661)春以来数多くのキリシタンが尾張北部の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女200余人だけを、寛文4年12月19日(1665年2月3日)この地で断罪に処し、他のキリシタンは赦免にしようと努めた・しかし、幕府の了承を得ることができず、結局検挙された2000人余のキリシタン全員を寛文7年10月に村方で処刑せざるを得なかった。藩主光友公は、此の地に仏寺を建立して彼らの冥福を祈らせたが、この度カトリック名古屋教区も、永国寺側の好意溢れる快諾を得た上で、信仰のための彼らキリシタンの熱心と忠誠をたたえつつ、この碑を建立する。-1997年11月23日 カトリック名古屋教区長 野村純一司教 撰文 青山 玄神父


鐘楼を見て、あしもとの案内板に気づきました。なになに‥

黄色調栄国寺銘鐘由縁
古典文学平家物語の冒頭に祇園精舎の鐘の声諸行無常の響有り沙羅双樹の花の色盛者必衰のことはりを現はすとあるがこの鐘の音とはこの黄色調銘鐘の音である-調律市大教授青木工学博士

「黄色調銘鐘」とはどういうものか?
『徒然草』によると「黄鐘調(わうしきでう)の鐘」。あてはまる「浄金剛院(じょうこんごういん)の鐘」は今、妙心寺の梵鐘として国宝になっています。音はハ調のラだそう。

徒然草 第二百二十段
現代語訳
鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したのだが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せる羽目になった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。
<原文>
凡そ、鐘の声は黄鐘調(わうしきでう)なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎(ぎをんしやうじや)の無常院の声なり。西園寺(さいをんじ)の鐘、黄鐘調に鋳(い)らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国(をんごく)より尋ね出(い)だされけり。浄金剛院(じやうこんがうゐん)の鐘の声、また黄鐘調なり。-徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)

「梵鐘(ぼんしょう)」について『仏具辞典』を見たところ、現存する最古の日本製の鐘として、妙心寺の浄金剛院鐘が載っています。梵鐘ちなみの「大坂冬の陣」話が興味深い。

梵鐘(ぼんしょう)
(略)日本へは朝鮮を経てもたらされたが、朝鮮は鋳鐘の技術が優れ名鐘が多かったため、日本は朝鮮半島製の鐘を貴び、盛んに輸入した。慶州博物館所蔵の、新羅恵恭王7年(771)造、奉徳寺梵鐘は、鋳造技術の優秀さで名高い。(略)日本に於いても名鐘といわれる鐘は多い。現存する最古の日本製の鐘は、京都・妙心寺の浄金剛院鐘で、文武天皇2年(697)に鋳造されたもの。京都・神護寺の鐘はその銘分によって知られる。播磨尾上神社の鐘は音色で有名である。また豊臣秀頼が京都・方広寺の大仏殿を再建した際、同寺の鐘の銘文の「国家安康」という一節を、徳川家康によってつけ込まれ、大坂冬の陣の原因となった話はよく知られている『仏具辞典』清水 乞編

山門を見上げながらくぐり、左(東)に出て北へ。右手の奥に山門が見えます。

長榮寺(ちょうえいじ)

山門の手前に石標「金毘羅大権現 長榮寺」。「尾張三十三観音霊場 第二番札所」らしいので、後日に調べてみます。

長栄寺蘿塚(ちょうえいじらづか)
この蘿塚は、横井也有(やゆう)68歳の明和6年(1769)冬、従僕であり門人でもあった石原文樵(ぶんしょう)が、その恩義に報いるため建立した塚である。也有の髪と爪を乞い求めて埋め、土を高く盛り、青蘿(あおかずら)を植えて也有の徳風を後世に伝えようとしたもので、碑石には「也有雅翁(やゆうがおう)」、その下に「肥遁励操」「滑稽蜚声」、と記されている。
この寺で、安永10年(1781)内藤東甫(とうほ)が、也有を始め九老を招き詩歌連俳(しいかれんぱい)の会、尚歯会(しょうしかい)を開いた。-名古屋市教育委員会

横井也有(よこいやゆう)は、松尾芭蕉と双壁をなす江戸時代中期の俳人。有名な句に「化物の正体見たり枯をばな」があります。横井也有は尾張藩の武士。内藤東甫は『名古屋市史』に記載があるようなので、後日に見てみます。蘿は、蔓性植物の総称。青蘿は青蔓でしょうか。青蔓は、色が変わる青い実が人気の蔓性植物。
青蔓⇒ 季節の花300

松尾芭蕉といえば、名古屋テレビ塔(中部電力 MIRAI TOWER)の北東に「蕉風発祥の地」案内板が立っています。これについてはあらためて。

きた道に戻り、北へすぐ左手(西)。頭上に、葵の紋様も美しいおしゃれな寺号板。


梅香院(ばいこういん)

尾張藩2代藩主徳川光友公の十一男・友著(ともあき)公の実母・梅香院の菩提寺。知著公は、尾張徳川家の分家・川田久保松平家の初代当主。山門そばの掲示板に、徳川美術館のポスターあり、筆書き「梅に鶯」が優美なのも道理です。

見頃の白梅、めずらしい延命地蔵尊(座に「三界萬霊」の銘文)を見させていただきました。やさしいおくりさんに声掛けいただいたおかげさまでした。

北へ、大須商店街で昼食後、大須観音へ。

宗春浪漫(むねはるろうまん)

尾張七代藩主・徳川宗春(とくがわむねはる)公は、名古屋の歴史・文化史上、欠かせない人物。宗春公をテーマにしたからくり人形劇を見て楽しみました。日が暮れてから見ると、絢爛さが際立ちます。

「宗春浪漫」
自ら派手な衣装を身にまとい、商業、遊芸を奨励し、名古屋の経済、文化を活性化させた異能の人、尾張七代藩主徳川宗春をテーマにしたからくり人形劇です。白牛にまたがり、大須を練り歩く「宗春公」、宗春が愛した花魁「春日野」、精巧に再現した終わりだしから出現する「浦島太郎」や「唐子」など約6分間の縁起を披露します。
制作 夢童由里子
上演時刻 11:00 / 13:00 / 15:00 / 17:00 18:30-名古屋市

文化のみち散歩 南寺町(2)は、これにておひらき。

歩き方の参考にした「中区:史跡散策路」の「別院コース」すべては歩けませんでしたが、コースにないみどころもたくさん!満喫しました。

文化のみち散歩では月に一回、古墳から現在まで時代を横断して、名古屋の歴史をたどっています。「一緒に歩いてみたいな」という方お声がけください😊